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あしあと

    徳川家康ゆかりの地 松伏

    • [更新日:]
    • ID:597

    徳川家康坪割書(個人蔵・埼玉県立文書館寄託)

    徳川家康坪割書の写真
    覚 弐拾五間 つぼの内、拾間 家、弐拾間 つぼねとあやいた、拾弐間 家、五間 とおり道、十五 といしきい
    史跡杉浦家陣屋の案内看板

    慶長5年(1600)、下野国小山(現・栃木県小山市)の上杉景勝攻撃のために江戸を出発した徳川家康の元へ、石田三成が挙兵したとの報が入ります。
    写真の古文書は家康が江戸へ軍勢を引き返す際、家臣である伊奈忠次に対し松伏の大川戸に陣屋(御殿)を構築することを指示する内容で、自筆で認めたものです。
    実際に普請(建設)にあたったのは忠次に仕える杉浦定政であり、後にこの御殿は家康から忠次に下賜(身分の高い者から下の者へ物を与えること)され、それがさらに定政に下賜されることとなりました。
    杉浦家陣屋と呼ばれたこの御殿は杉浦家が代々暮らし、平成に入りホームセンターができるまで大川戸の地にありました。現在はその敷地内に案内看板が建てられ、当時の記録を残しています。(町指定文化財)

    家康の腰掛石(路傍)

    家康の腰掛石1
    大川戸の地

    上に記した、江戸に引き返す際に立ち寄った大川戸の地で、家康が腰かけたという伝承が残る石です。元々は杉浦陣屋の敷地内にあったものですが、現在は近隣に移設され、他の石造物と併せて並べられています。

    日光道中武州栗橋宿総州中田宿境房川渡船橋掛絵図(松伏町教育委員会所蔵)

    日光道中武州栗橋宿総州中田宿境房川渡船橋掛絵図1

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    日光道中武州栗橋宿総州中田宿境房川渡船橋掛絵図2

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    日光道中武州栗橋宿総州中田宿境房川渡船橋掛絵図3

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    日光道中武州栗橋宿総州中田宿境房川渡船橋掛絵図4

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    日光道中武州栗橋宿総州中田宿境房川渡船橋掛絵図5

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    日光道中武州栗橋宿総州中田宿境房川渡船橋掛絵図6

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    日光道中武州栗橋宿総州中田宿境房川渡船橋掛絵図7

    7

    松伏と徳川家の関わりは、家康以後にも続きました。
    写真は、天保14年(1843)、徳川家慶が日光社参を行う際、栗橋宿(現・久喜市栗橋)と中田宿(現・茨城県古河市)の間を流れる利根川に船を並べて橋を作った様子を表した図です。架橋の詳細が7枚に渡って描かれています。
    江戸時代初期に松伏の大開墾事業を行い静栖寺とその末寺を整備した石川民部家が資材の手配などで貢献しました。(町指定文化財)

    八幡宮および熊野権現社の朱印状(個人蔵)

    八幡宮および熊野権現社の朱印状
    武蔵国葛飾郡大河戸村 西光寺八幡宮領、内村之内 弐石事、任先規寄附之訖、全可収納、并社内寺中竹木 諸役等免除、如有来、永不可有 相違者也、慶安元年九月十七日(徳川家光)(朱印)

    大川戸の八幡神社と、ここに合祀された熊野権現社は中世期の創建であると考えられており、両社には徳川歴代将軍が発給した朱印状が残されています。朱印状は、寺社などへ所領の給付をするために発行されたもので、将軍の朱印が押印されています。両社には、慶安元年(1648)から万延元年(1861)までの朱印状が各9通残されています。
    この外にも、町内の寺院に徳川歴代将軍からの朱印状が残されており、江戸幕府との関わりを窺い知ることができます。(町指定文化財)

    まつぶし誉(まつぶしまちの推奨特産品)

    まつぶし誉

    松伏町は江戸時代、天領と呼ばれる江戸幕府の直轄地でした。年貢として納められた、松伏の豊かな自然で育った米を使った日本酒として生まれた「まつぶし誉」のラベルには、将軍家の家紋である葵のご紋が使用されています。

    松伏の地図

    ※現地に駐車場はありません。見学の際は周辺にお住まいの方のご迷惑にならないよう、ご配慮願います。

    お問い合わせ

    松伏町役場教育文化振興課社会教育担当

    電話: 048-991-1873 ファクス: 048-991-1902

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